まりおん 不定期連載小説
『博多の風、異国の星』
第一部「使者の帆影」
博多湾の夜明けは、いつも海の匂いから始まる。
大宰府の役人・菅原道継(すがわらのみちつぐ)は、福崎の丘の上に立ち、朝靄の中にぼんやりと滲む水平線を眺めていた。丘の上に建つ筑紫館は、唐や新羅からの使節を迎えるための迎賓館だ。道継はここの責任者として赴任して、もう三年になる。南北に二棟の建物を配し、中央に橋を架けた立派な施設だが、朝廷の役人が詰める場所としては、都からあまりに遠かった。
都の貴族たちからすれば、ここは辺境だった。「筑紫へ行く」と告げたとき、同僚たちの目には哀れみが浮かんだ。そのとき道継は笑って見せたが、内心では少し傷ついていた。しかし今は違う。この丘から見える博多湾の広さと、刻々と変わる空の色が、いつの間にか好きになっていた。
その朝、湊に見慣れぬ帆が現れた。
大陸から来た船だ。唐の商人か、新羅の使節か――。甲板に立つ男の顔が、陸に近づくにつれてはっきりしてきた。高い鼻梁、大陸の風をまとった堂々たる立ち姿。新羅の使節・金大成(キム・デソン)。去年の秋にも来た男だった。波に揺られながらも背筋を一切曲げないその姿に、道継は思わず見惚れた。
「道継どの。また参りました」
金大成は、流暢な日本語で言った。波に揺られる船から降り立ちながら、それでも背筋を伸ばし、軽く頭を下げた。
「荒れましたか、今年の玄界灘は」
「荒れました」と金大成は苦笑した。「三日、ほとんど眠れなかった。波が高く、荷の一部がずぶ濡れになりました。しかしここに着けば、必ずよい酒と飯があると思っていましたから、不思議と気持ちは折れなかった」
道継は思わず口元が緩んだ。筑紫館の厨房に声をかけながら、なぜか今日は任地が遠くに感じられなかった。丘の上を吹き抜ける風も、今朝はどこか温かかった。
夜、宴が開かれた。
新羅の一行は豚の塩漬けを振る舞い、日本側は玄界灘で獲れた鯛の刺身と濁り酒を出した。言葉の端々はまだ頼りない。通詞が懸命に橋渡しをするが、それでも笑い声だけは、同じ音がした。異国のものが、同じ食卓に並ぶ。その不思議さと豊かさを、道継はこの夜初めて、腹の底から感じた。
宴も終わりに近づいた頃、金大成がぽつりと問うた。
「あなたの国で、一番美しいものは何ですか」
道継は少し考えた。都の寺か、桜の季節か、それとも朝廷の儀式の荘厳さか。しかし口から出たのは別の言葉だった。
「この丘から見る夕暮れです。博多湾が赤く染まる。あなたの国の方角に」
金大成はしばらく黙った。外からは波の音が聞こえた。遠く、どこまでも遠く。それからゆっくりと、静かに言った。
「私の国でも、海は東に沈みます。同じ夕日を、あなたと私は違う岸から見ているのかもしれない。それでも、同じ空の下にいる」
道継はその言葉を、長い間忘れることができなかった。
金大成が帰る朝、湊には白い霧が立ち込めていた。船が出る前、金大成は一枚の布を道継に渡した。新羅の絹だった。受け取った道継は、何も言えなかった。金大成は静かに笑い、帆を上げた。
博多湾の霧の中に、その船はゆっくりと溶けていった。
==次回予告==
第二部「土の底の証言」



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