あなたと会う日はいつも雨だった。
そう思ったのは、駅前のロータリーで、濡れたアスファルトに反射するネオンを見つめていたときだった。六月に入って最初の週末、空はまるで約束を覚えているかのように、また灰色の雲を連れてきていた。
私、佐倉美咲は二十八歳。広告代理店で働いて六年目になる。今日は大学時代の友人、智子の結婚式の二次会だった。終電にはまだ早い時間だけれど、雨はだんだん強くなってきていて、駅まで歩く気力はもう残っていなかった。
「タクシー、来ないかな」
スマホでアプリを開きながら呟く。画面には「タクシーが近くにいません」と表示されていた。この雨の中で、薄いワンピース一枚で立っているには、ちょっと長い時間がかかりそうだ。
「あの、すみません」
声をかけられて振り返ると、同じ二次会にいた男性が立っていた。確か、智子の旦那さんの会社の同期だと紹介されていた人だ。名前は……そうだ、川村さんといった。
「これ、よかったら」
差し出されたのは、折りたたみの日傘だった。今日のような梅雨時の蒸し暑い日に、晴雨兼用の傘を持っている人は意外と少ない。
「日傘、ですか?」
「ええ。実は今日、すごく天気予報が悪かったので、念のため雨でも使える日傘を持ってきたんです。でも結局、式場の中にいたから一度も開いてなくて」
川村さんは少し恥ずかしそうに笑った。その笑い方が、なんだか妙に懐かしい感じがした。
「タクシー待ってるんですよね?」
「はい、でも……」
スマホの画面には「タクシーが見つかりません」という表示が出ていた。私はアプリの配車をキャンセルした。
「私もちょうど同じ方向なんです。よければ、一緒に大通りまで歩きませんか? この傘、二人でも入れますから」
迷ったのは一瞬だった。雨はもう本格的に降り出していて、傘なしでは確実にずぶ濡れになる。私は頷いて、彼の差し出した日傘の下に入った。
「初夏なのに、こんなに降るんですね」
「そうですね。でも、僕、雨の匂いって結構好きなんです。土とか、アスファルトとか、なんか夏が始まる前の合図みたいで」
歩きながら、川村さんはそんなことを言った。私は思わず、声を出して笑ってしまった。
「なんですか?」
「いえ、すみません。実は私、雨の日に変なジンクスがあって」
「ジンクス?」
「昔好きだった人と会う日は、なぜかいつも雨だったんです。デートの日も、告白された日も、別れた日も。だから、雨が降ると、ちょっと身構えちゃうんですよね」
口に出してから、初対面の人にする話としては変だったかもしれないと思ったけれど、川村さんは特に驚いた様子もなく、ふむ、と頷いた。
「それって、別に悪いことばかりじゃなくないですか?」
「え?」
「だって、告白された日も雨だったんですよね。つまり、雨の日にいいことが起きたこともあるってことです。ジンクスって、自分で『悪いこと』に結びつけて覚えてるだけで、実際はもっとフラットなんじゃないかな」
そう言われて、私は少し驚いた。確かに、降水確率が高いと聞くたびに「今日は何か嫌なことが起きそう」と身構えていた自分に気づく。でも、最初に彼と出会ったのも、こうして雨の日だった。
大通りに出ると、ちょうど空車のタクシーが一台、こちらに向かってきていた。
「あ、来ましたね。乗りませんか? 僕、ちょうどこの先のマンションなので、途中まで一緒で大丈夫です」
タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げる。窓の外では、雨に濡れた街路樹の葉が、街灯の光を受けて銀色に光っていた。
「川村さんって、いつもそんなふうにポジティブなんですか?」
ふと聞いてみると、彼は少し考えるような顔をした。
「いつも、ってわけじゃないです。実は僕も去年、結構大きな失恋をしまして」
「え、そうなんですか」
「はい。それで、しばらくは何をしても楽しくなくて。雨が降ると『またこんな日か』みたいな気分になってました。でも、ある時ふと思ったんです。天気って、僕の気分のために降ってるわけじゃないなって」
タクシーが信号で止まる。ワイパーが規則的に動く音だけが車内に響く。
「雨は雨で、ただ降ってるだけなんですよね。それに意味を持たせるのは、こっち側の問題で。だったら、せめて『雨だから楽しいこと』を見つけようって決めたんです。雨の匂いを楽しむとか、雨音を聞きながら好きな音楽を聴くとか、こうやって誰かに傘を差してあげるとか」
私は、窓ガラスに映る自分の顔をちらっと見た。雨粒が窓を流れていくのと一緒に、何かが少しだけ軽くなっていく気がした。
「私、ずっと『雨=何か終わる日』だと思ってました。でも、そうじゃないのかもしれないですね」
「むしろ、雨の日に新しく始まることだって、いくらでもあると思いますよ」
タクシーは私のマンションの近くで停まった。
「ここで大丈夫です。今日はありがとうございました、日傘も、お話も」
「いえいえ。あ、そうだ」
川村さんは、ふと思いついたように、傘の柄を私の方に向けた。
「これ、よかったらどうぞ。僕、家までもう五分くらいですし、走ればすぐです。それより、また雨の日に、誰かに何かいいことが起きるきっかけになってくれたら嬉しいので」
「でも……」
「今日のジンクス、塗り替えのきっかけになれば光栄です」
そう言って、彼は笑いながらタクシーを降りていった。傘だけが、ふわりと私の膝の上に残された。運転手さんが、ちょっと微笑ましそうにバックミラーをちらりと見たのに気づいて、私は少し恥ずかしくなった。
マンションに着いて、エレベーターを待つ間、私は手元の日傘をじっと見つめた。普通の、よくある折りたたみ傘。でも、なんだか今までのどの傘とも違って見える。
部屋に戻って、濡れた服を着替えながら、私はスマホでメッセージアプリを開いた。智子のグループに「二次会楽しかった、ありがとう!」と送ったあと、ふと、川村さんの名前で検索してみる。さっき名刺をもらっていたことを思い出したからだ。
名刺に書かれていたメールアドレスに、私は少し緊張しながら一文を打った。
「今日、日傘をお借りしてしまったので、近いうちにお返ししたいです。お礼に、晴れの日にでも、コーヒーでもどうですか」
送信ボタンを押すと、画面の向こうで雨音がさらさらと響いているのが聞こえた。ベランダの窓を少し開けてみる。湿った夏の匂いが、部屋の中に流れ込んできた。川村さんが言っていた「夏が始まる前の合図」というのは、案外当たっているのかもしれない。
数分後、スマホが小さく震えた。
「ぜひ。晴れの予報の日を選んで、僕からまた連絡します。でも、もし当日雨になったら、それもまた『始まりの日』だと思って楽しみましょう」
その文章を読んで、私は思わず声を出して笑ってしまった。窓の外では、雨はまだ降り続いている。けれど、さっきまでとは違って、その音が、なんだかすごく心地よく聞こえた。
数日後、天気予報には「曇り、所々で晴れ間」と出ていた。約束の日、私は早起きして、もらった日傘を傘立てから取り出した。今日も降るかもしれない。でも、それでもいい。
「あなたと会う日は、いつも雨だった」
そんな言葉から始まった話に、これからどんな続きが書き加えられていくのか。エレベーターを待つ間、私は小さく口角を上げた。雨の匂いが、もう待ち遠しくなっている自分に気づいて。
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。フロントガラスの向こうには、雲の切れ間から、初夏の柔らかい光が差し込み始めていた。
雨でも、晴れでも。どちらでもいい。大事なのは、その日をどんな気持ちで迎えるかだけなのだから。



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